大胆な対談・第三部「流浪の70年代漫画家人生」

(辰)赤星たみ子、おだ辰夫、ひきの慎二、御厨さとみ、宮のぶなお、六田のぼる、この六人の共通点は?
(ま)???
(辰)わははは、わからんだろうなぁ。
(ま)出身地でもないし、年齢も絵柄もちがいますねぇ。漫画家というのが唯一の共通点ですね...
(辰)全員1970年代に小学館の学年別雑誌で読者コーナーを担当していたんだよ。それぞれ担当学年や連載時期はちがうけどな。
(ま)ふ〜ん、それがどうかしたんですか?
(辰)どうかしたって、おだ辰夫の70年代の活動の話だよ。
(ま)誰もそんなこと聞いてませんけど。
(辰)聞いてなくても話すんだよ。これは大胆な対談なんだから。だいいち貴様は70年代には姿形もないだろうが。
(ま)そりゃそうですよ。まだこの世にMacも誕生してないんだからフリーソフト作者まるたつが存在してるわけないでしょ。
(辰)それで我が輩は小学四年生「四ちゃんよっちゃんクラブ」というページを担当してたわけだ。これは後に「ショー4ショー」とかいうタイトルに変わったが毎月編集部に送られてくる読者のはがきをネタにして構成するページで当時全盛だったラジオの深夜放送のノリで描いてたんだ。我が輩の愛称はジャロ辰でけっこー人気あったんだぞ。
(ま)じゃあ、パーソナリティーみたいなもんですね。
(辰)そうそう、そのうち読者の家や学校にも出かけて行くようになり、教室に乱入したこともあるぞ。あの頃の小学四年生も今ではいいおじさんおばさんになってるんだろうねぇ。
(ま)他にもいろんな所に行ったんですか?
(辰)うんうん、ある時は小樽のストーンサークルを見に行き、またある時は和歌山にツチノコを探しに、またある時は伊豆イノシシ村でイノシシの調教に挑戦、またある時は名古屋の人工スキー場で滑走、と日本中とびまわって漫画なんか描く暇がなかったなぁ。なんだか旅芸人みたいだったな。実はこの名古屋の人工スキー場の近くに当時小学生だった「新し物好き」のダウンロ〜ド主宰者の早川厚志さんが住んでた事が、彼からのメールで判明したのだ。
(ま)学年誌以外ではどんなとこで描いてました?
(辰)う〜ん、少年マガジンテレビマガジンでいくつかの作品を描いてたがすぐに終わったな。その後、週刊少女コミックにも「あたしゃベルベル」「きよらかちゃん」等を一年間くらい連載したな。誌面では萩尾望都さんが大活躍で、彼女の熱烈なファンから我が輩の漫画のページをビリビリにちぎった紙片を封筒に入れて送りつけられたことがあったな。
(ま)そりゃまた、どーゆーわけで?
(辰)ちょっとお下品な漫画を描いてたもんで、萩尾先生の熱心なファンにとっては萩尾先生の作品が載ってる雑誌に一緒に載るのが我慢出来なかったんだと思うよ。
(ま)そんなに下品だったんですか?
(辰)いや、原始時代が舞台で何故かタヌキが出てきてタマタマが異常に大きくなるって内容なんだけどね。
(ま)萩尾さんのファンじゃなくてもあんまり読みたくないですね。
(辰)たぶんその頃週刊少年サンデーで連載していた「バハハ大放送」の影響だろうな。
(ま)たしか放送作家の山口啄也さんと組んで構成していたバラエティページですよね?
(辰)そう、毎週ウンコや便器ばかり描いてたからなぁ。これはけっこー人気があって漫画版「バハハ大放送」ってのも描いたことがあるよ。思えば初めての原作付き漫画だな。シナリオを渡されて驚いたのは、「このあたりなにかギャグひとつヨロシク」なんて書いてあるんだよ。
(ま)わはは、そりゃ笑えますね。
(辰)まぁ、ヤマタクさんとの息がぴったりだったからこその芸当だね。
(ま)そうですね。
(辰)オヌシとの息は合わないけどな。
(ま)ほっといてください!
(辰)というわけで、次回大胆な対談第四部のテーマはコミカライズということで。
(ま)勝手に決めないでください!それにコミカライズって一体何ですか?
(辰)じゃっ、また後で!
(ま)・・・・・・。


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